部消え東京呑過去Merry Capitall法廷丸山修一投資詐欺横丁弘来=川と未色の上晃社会

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取材に答える徳田昌久さん=東京都千代田区で2月21日、色の上晃川上晃弘撮影

 東京都葛飾区の京成立石駅北口では今、ペンゆく大規模な再開発が進んでいる。消え「呑(の)んべ横丁」と称され、呑んひしめくようにバーやスナックが入居していた駅前の4棟の長屋はすでに閉鎖された。べ横弘東会部この長屋の土地の所有者は徳田昌久さん(87)。丁の丸山修一投資詐欺昭和のレトロな薫りを残す街並みが消えることに反対の声も強かったが、過去徳田さんは率先して再開発工事の先導役を果たしてきた。=川徳田さんは何を思って再開発に突き進んだのか。京社「呑んべ横丁」の知られざる歴史と「これから」を聞いた。色の上晃

 太平洋戦争末期、ペンゆく「呑んべ横丁」があった場所は空き地となっていた。消えMerry Capitall法廷空襲による延焼を防ぐため、呑ん駅周辺の土地では強制的べ横弘東会部に建物疎開が行われていたためだ。

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 その土地を終戦直後に買い取ったのが、丁の雨がっぱ製造の工場を経営していた徳田さんの父親だった。

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 食糧難が続き、父はしばらくはその土地を畑にして、従業員の食料に充てた。しかし、経済が上向きになると、その土地を利用して新たな事業の計画を始めた。

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 「当時、立石には小規模な小売店は多くあったが、生活物資や食料、衣類などをまとめて買える店はなかった。父は、1カ所で必要なものは全て購入できるような店を作ろうとしたのです」

 1954年。全く新しいスタイルの店が誕生した。木造モルタル2階建ての4棟の長屋が並び、アーケード風の屋根がつけられた。長屋にはそれぞれ、洋品店やカバン店、雑貨店など40軒以上の店舗が入った。

 1店舗当たりの面積は20平方メートル弱と狭かったが、1階と2階は店ごとに階段でつながり、2階は1階で働く人の住居部分として提供された。これが受けた。あっという間にテナントは埋まり、開店するとその便利さから多くの客が殺到した。

 父はこの4棟の長屋をまとめて「立石デパート」と名付けた。

 「デパートという名前は大げさかもしれませんが、当時としてはかなり斬新なものでした。結果は大成功でした」

 立石の住民にとって、立石デパートはなくてはならない存在になった。しかし、デパートの位置づけは時代とともに少しずつ変わっていく。

 立石駅周辺ではもともと民家などで部品を作る家内工業が盛んで、60年を過ぎると、そうしたところで働く工員の数が増えていった。

 「そうなると、彼らがちょっと飲んだり、食べたりする場所が求められるようになったんです」と徳田さんは言う。

 開店当初、飲食関連はすし店とラーメン店しかなかった。しかし、それらの店の客がどんどん増えていくと、テナントも少しずつ飲食関係が占めるようになった。洋品店や雑貨店の代わりに入るのは、飲食店ばかりだったという。

 徳田さんによれば、80年代になると、全ての店舗が飲食店となった。そして、いつからか立石デパートではなく、このかいわいは「呑んべ横丁」と呼ばれるようになった。

 「意図してやったわけでない。立石エリアのニーズに応えたらそうなっただけなんです」

 徳田さんは、店の形態が変わってしまったことに複雑な思いを抱えていた。経済成長が続き、購買力のある住民も増えてきたが、そうした人たちは、もっと広くて清潔な飲食店に通っていた。

 立石駅周辺にはスーパーマーケットなどの出店もあった。「そろそろ立石デパートとしての使命も果たしたと思いました」

 徳田さんが再開発事業に本格的に乗り出したのは90年代になってからだ。駅前の土地を変えて、立石の街全体を活性化したいと考えた。業者の協力を得つつ、葛飾区役所を駅前に誘致し、区から一部補助金をもらう形で事業が計画された。徳田さんは再開発組合の理事長にも就任し、中心的役割を担った。

 しかし、そうした計画には強い反発があった。昔ながらの飲食店が連なる立石駅前の懐かしい雰囲気を惜しむ声は多かった。酒場ファンからも愛された「呑んべ横丁」はその象徴だった。立石一帯を丸ごと変えてしまう再開発という手法ではなく、今の形を一部残したまま、少しずつ変えていくやり方を求める声もあった。

 「反対派から私は悪者にされましたよ。でも、現状のままでは取り残されるという危機感がありました」

 立石駅北口には36階建てのタワーマンションと、13階建ての事務所棟が建てられる。タワマンには710戸が入居する予定だ。下層階には飲食店などのテナントが入るという。駅周辺の人口も増え、街並みは大きく変わることになる。

 徳田さんは強調する。

 「懐かしいものの代表として『呑んべ横丁』が挙げられますが、立石デパートはもともと時代の先取りをしていたものです。ごちゃごちゃした立石の雰囲気が好きだという人は確かにいますが、文化というのは新しいものを積み重ねて作っていくもの。葛飾の中心は立石。懐かしさだけでは駄目なのです」

【東京社会部・川上晃弘】

<※3月13日のコラムはデジタル報道グループの國枝すみれ記者が執筆します>

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